2012年4月4日水曜日

W・ジェームズ『人それぞれの信仰体験』第8講:分裂した自我とその統合過程



凡例:[原注]〔訳注〕 リンク:目次
第八講 分裂した自我とその統合過程
LECTURE VIII(原文サイト)
 
THE DIVIDED SELF, AND THE PROCESS OF ITS UNIFICATION

異種混交人格――人格は段階的に統合を達成する――分裂した自我の例――統合の達成は宗教的である必要がない――“逆回心”事例――その他の事例――段階的および突発的な統合――トルストイの回復――バニヤンの回復
前回の講義は、わたしたちが生きている世界に蔓延(まんえん)する要素である悪をテーマにしていましたので痛みが伴っていました。講義の終わりに、一度だけの誕生で事足りる、いわゆる健全な精神と、幸せになるためには二度の誕生を必要とする病んだ魂とをそれぞれ特徴づける二つの人生観の対極的な違いの全体像を理解するにいたりました。その結果、わたしたちの経験の領域について二種類の異なった考えかたがあることになります。一度生まれの宗教において、世界はある種の直線的に進むなりゆき、あるいは一層構造のことがらであり、その価値計算は一つの単位で間に合っていて、その各部分はあるがままに見えるだけの価値を備えており、その価値総計はプラス・マイナスの計算で決まります。幸福と宗教的平安とは、勘定のプラス側で生きることにあるのです。他方、二度生まれの宗教の場合、世界は二層構造のミステリーです。平安は、単純に人生のプラス面を加え、マイナス面を減らすだけでは成就できません。自然のままの善は量的に不足していて、はかないものであるだけでなく、その存在そのものに(いつわ)りがひそんでいます。善は、生前の敵に倒されなくても、死によってすべて無に帰し、最終的な残高を残すことがなく、わたしたちの永続的な崇拝の対象ではありえません。自然のままの善は、むしろ、わたしたちを自分なりに真実な善から(へだ)てます。自然のままの善を放棄し、それに絶望してこそ、わたしたちは真実の方向に向かうための第一ステップを踏めるのです。自然のままのものと霊的なもの、二つの生きかたがあり、どちらか一方に従うためには、まず他方を失わなければなりません。
これら二つのタイプは、それぞれの過激な形態、生粋(きっすい)の自然主義と生粋の福音主義において極端な対照をなしています。もっとも、現代におけるたいがいの区分けがそうであるように、過激な極端は観念的な抽象に傾くきらいがあり、わたしたちが出会う生身の人間のほとんどは中間的な部類のもの、要するに混じりあっているのです。だが、じっさいには、みなさん全員が違いを認めています。たとえば、みなさんはメソジスト派改宗者が能天気なだけの健全な精神の道徳家に向ける白眼視のことをご存知です。また同じように、健全な精神の道徳家の側は、メソジスト派のいう生きるために死ぬことや、逆説や自然な現れの逆転を神の真理の精髄とすることといった病んだ主観主義と思われることに対して反感を抱くものだと理解しています。[86]
[86] 例。「わが国の若い人たちは、原罪、悪の起源、宿命、その他同類の神学問題に(むしば)まれている。だれにとっても、このような問題が現実的な障害になることはなかった――このような問題を追求するために道を外れるようなことをしなかったなら、いかなる人の道にも影が差すようなことにはならなかった。こんなものは、魂のおたふく風邪、はしか、百日咳の類いである」エマソン『霊の律法』Emerson: Spiritual Laws.
二度生まれ人格の心理学的な基層は、本人の生まれつきの気質におけるなんらかの不調和や不均質、つまり精神的・知的形成における不完全な統合にあるようです。
「二重人格、二重人格! Homo duplex, homo duplex! 〔ラテン語〕」と、アルフンス・ドAlphonse Daudet1840-97)フランスの作家〕が書いています。
「わたしが自分は二重人格であると初めて悟ったのは、わたしの兄アンリが死んだときだった。父がとても芝居じみて『あいつは死んだ、死んじまった!』と叫んだのである。わたしの第一の自我は悲嘆にくれていたが、第二の自我は『あの叫びはなんてこころからのものだったのだろう。舞台のうえであったなら、どれほどすばらしかっただろうか』と考えていた。わたしが一四歳のときだった。
「このおぞましい二重性は、しばしばわたしに反省材料を突きつけた。ああ、このやりきれない第二のわたしは、もう一方が歩き、行動し、生活し、苦しみ、あくせくしているあいだ、いつも座りこんでいた。この第二のわたしに対し、夢中にさせたり、涙を流させたり、あるいは眠りこませたりすることは、わたしには金輪際できなかった。それに、こやつはなんとものごとの奥を見抜き、なんとあざ笑うことか!」[87]
 [87] Notes sur la Vie, p. 1.
性格心理学に関する最近の著作は、この論点を多く語っています。[88]最初から調和しており均整のとれた内的素質を備えて生まれる人たちがいます。こういう人たちの場合、さまざまな衝動はたがいに矛盾せず、意思は問題なく知性の指図に従い、情熱は極端に走らず、生活が後悔にわずらわされることもほとんどありません。他の人たちの場合、反対の性質が備わっています。その程度は、単に奇妙だったり奇抜だったりする不調和にすぎない軽度のものから、結果が不都合なまでに極端になるような不一致まで実にさまざまです。かなり無邪気な類いの異質性について、アニー・ベサント夫人Annie Besant1847-1933)英国の神智学者〕の自伝に好例が見受けられます。
 [88] たとえば、F・ポーランF. Paulhanはその著書Les Caracteres, 1894において、神経質症型les Inquiets〔フランス語。以下同じ〕、頑迷型les Contrariants, 分裂症型les Incoherents, 崩壊型les Emiettesといった多様な精神類型をあげ、冷静型les Equilibresや統合型les Unifiesと対比している。
「これまでのわたしには弱さと強さとがめちゃくちゃに混じりあっており、弱さのせいで大きな代償を払ってきた。子どものころ、内気の責め苦に悩み、靴の(ひも)が解けようものなら、みなの目が運の悪い紐を見つめていると感じて、恥じ入るような思いをした。少女のころ、見知らぬ人に尻込みし、自分は求められていないし、好かれていないと思っていたので、わたしに親切に接してくれるなら、どなたにでもこころからありがたい気持ちでいっぱいになるほどだった。一家の若い主婦になったころには、わが家の召使たちを恐れ、不届き者をたしなめる苦しみに耐えるよりも、ぞんざいな仕事を大目に見ていた。演壇にあがれば、闘志に不足なく弁じたり論争したりしていたが、ホテルでは欲しいものがあっても、呼び鈴を鳴らしてボーイに持ってこさせるよりも、なしですませるほうがよかった。壇上では、大事な論点を守るために戦闘的になったが、家のなかの口論や反論に嫌気がさすわたしは、公の場では抜群の闘士なのに、私生活では根っからの臆病者なのだ。目下のものを叱責しなければならない羽目になったとき、小言をいうだけの精神力を奮い起こすのに一五分間も不愉快な思いですごすことが何度あったことだろう。へまな仕事をやった青二才や小娘をとがめるのをためらって、壇上の豪胆(ごうたん)な闘士はハッタリかと自分をあざ笑ったことは何度あったことだろう。ちょっとした冷たい眼差(まなざ)しやことばだけで、わたしはカタツムリが殻に引きこむように自我に引きこんでしまったのに、それでいて、壇上で反論されれば、最高の弁舌を振るっていたのである」[89]
この程度の言行不一致であれば、愛すべき弱さにすぎないとしてもよいでしょう。だが、入り混じった性格の程度がもっと強烈であれば、本人の生活に大混乱を招きかねません。いま、ある傾向が優勢であるかと思えば、次にはもうひとつの傾向が支配する、そのようなジグザグ・コースとしかいいようのない生きかたをする人びとがいます。霊は肉と戦い、両立しえない二兎を追い、気まぐれな衝動が考えぬいた計画のじゃまをし、その人生は、後悔と、品行不良や過ちの埋め合わせをする努力との一編の大河ドラマになっています。
混交型人格は形質遺伝の結果である――ご先祖たちの両立しがたく対立しあう性格の特性がそれぞれ肩を並べて保存されている――と説明されております。[90]この説明は――もちろん裏付けが必要ではありますが――それなりに筋が通っているのかもしれません。なにが混交型人格の原因であるかはともさておいて、その極端例は、わたしの第一回目の講義でお話しした精神病者の気質に見ることができます。その気質について書いている人はすべて、その記述のなかで内面的な異種混交を特筆しています。じっさい、ある人がその気質であるとわたしたちが気づくのは、この特色だけによることが多いのです。「高度変質者Dégénéré supérieur〔フランス語〕」は、ただ単に多くの方面における感受性の強い人であるにすぎず、その人の感覚や衝動があまりに鋭敏で互いに矛盾しているので、霊的な家ペドロの手紙一2-5を正常に保ち、行路をまっすぐに進むのが普通よりも困難になるのです。精神病気質が顕著になったとき、当人を悩ます強迫観念や固定観念のうちに、説明のつかない衝動、病的な呵責(かしゃく)、不安、抑制のうちに、混交型人格の絶妙な実例を見ることができます。バニヤンは言語妄想に取りつかれ、「このためにキリストを売っちまえ! あのためにキリストを売っちまえ! 売っちまえ! 売っちまえ!」ということばが彼のこころを百回も続けて駆け巡り、ある日、息を切らして逆襲し、「売るものか、売るものか。立ち去りたいなら、行かせてやれ」と衝動的にいいましたが、この戦いによる消耗のため、一年間にもわたり、絶望に陥ったままでした。聖人たちの生涯はこのような冒涜(ぼうとく)妄想で満ちており、いつもサタンがじかに誘惑しているからだとされています。この現象は潜在意識自我の活力と結びついており、これについては、ほどなくもっとまともにお話しなければなりません。
 [90] Smith Baker, in Journal of Nervous and Mental Diseases, September, 1893.
さて、気質がどうであれ、わたしたち全員にとって、性格の正常な発達は、主として内的な自我を正しくし、統合することにあるのですが、わたしたちが感情的になったり神経過敏なったりしやすく、あれこれ多くの誘惑に屈しやすかったりするものであれば、その程度に応じてなおさらのことであり、ましてや決定的に精神病質であれば、最大限にそうあらねばならないはずです。優れた感情と劣った感情、有益な衝動とまちがった衝動、これらはわたしたちの内部で相対的な混沌(こんとん)として発生します――これらは、最終的に正しい順位に置かれ、安定した機能システムを構成しなければなりません。秩序形成と苦闘の期間を特徴づけるものは、おおむね不幸ということになります。個人が敏感な良心をもち、宗教的にあせっている場合、不幸は道徳的な痛恨(つうこん)と罪意識の形をとり、精神的に卑しくよこしまであると感じ、人間存在を設計し、人間の霊的運命を指令するものに対する偽りの関係に寄りかかっていると思うでしょう。これが、プロテスタントのキリスト教の歴史においてとても大きな役割を果たしてきた宗教的な(うつ)であり、“罪の自覚”なのです。人間の内面は、その人には生きるか死ぬかの敵対関係にあると感じられる二つの自我、現実の自我と理想の自我との戦場であるのです。ヴィクトルユーゴーVictor-Marie Hugo1802-85)フランスの詩人・小説家〕は、ムハンマドに次のようにいわしめています――
われは壮絶な戦闘の卑しき戦場
いまは高貴な人間、またいまは下劣な人間
わが口に悪と善とが入れ替わり来る
砂漠の砂と水溜めのごとく
 La Légende des Siècles 詩集『諸世紀の伝説』)
まちがった生きかた、虚弱な意欲。聖パウロのいうように、「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」〔ローマの信徒への手紙7-15。自己嫌悪、自暴自棄。不可解にも人が受け継ぐ、説明もできず、耐えられもしない重荷。
自責の念と罪意識の形の(うつ)をともなった、調和の乱れた人格の典型例をいくつかあげてみましょう。聖アウグィヌスAurelius Augustinus354-430)古代キリスト教神学者〕の事例は古典的なものです。彼がカルタゴ〔北アフリカの古代都市〕育ちの半異教徒・半キリスト教徒〔母はキリスト教徒、父は異教徒〕であったこと、ローマとミラノへ移住したこと、マニ教〔ペルシア人マニが三世紀ごろ唱えた二元論的宗教〕に傾き、それに続いて懐疑論になったこと、人生の真実と純粋さを休みなく追求したこと、そしてついには、彼が知りあっていたり聞き知っていたりするとても多くの人びとが、官能の(かせ)を投げ捨て、純潔とより高い生きかたとに身を捧げているとき、自分の胸中にある二つの魂の闘争に当惑し、自分の意思の弱さを恥じていたさい、庭で「取って、読めSume, lege〔ラテン語〕」と呼ばわる声を聞き、でまかせに聖書を開くと、「淫乱と好色を捨て」〔ローマの信徒への手紙13-13云々(うんぬん)ということばが目にとまって、これが彼に直接伝えられたように思われた結果、内心の嵐を永久に(しず)めたいきさつがあったことを、みなさん全員が憶えておられることでしょう。[91] アウグスティヌスは心理学の天才であり、分裂した自我をもつことの苦しみを次のように説明していますが、これに勝る説明はいまだに現れていません。
 [91] ルイ・ゴードン〔Louis Gourdon〕(Essai sur la Conversion de Saint Augustine, Paris, Fischbacher, 1900)は、アウグスティヌスが回心した日(三八六年)の直後に書いたものを分析して、『告白』に彼が記した説明は時期尚早のものであることを示している。庭であった危機は、彼の以前の生きかたからの最終的な回心を決定づけたが、これはネオプラトニズム〔プラトンおよびその後継者の教説に類似する思想。新プラトン主義〕的な唯心論への転向であり、キリスト教に向かう道の半ばの段階にすぎなかった。キリスト教を全面的・根本的に信奉するにいたったのは、さらに四年後のことであるようだ。
「わたしがわがものにしはじめた新しい意思はいまだに、あの長年かけて鍛えられた勝手気ままな別の意思に打ち勝つほどには強固になっていなかった。だから、これら二つの意思、古いものと新しいもの、肉のものと霊のものは互いに争ってはわたしの魂を悩ませた。『肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する』〔ガラテヤの信徒への手紙5-17という句を読んだことがあるが、これをわが身の体験によって知ったのである。両方の意思のなかにいたものは、たしかにわたし自身だったが、わたし自身のなかでわたしが是認したもののほうが、わたし自身のなかで否認したものよりも多大にわたし自身だった。それにしても、望まないところへわざと向かったのであるから、習癖がわたしにあのように強烈な支配力を振るったのは、わたしのせいだった。いまだに地に縛られ、わたしはしがらみに束縛されるのを恐れるべきであったのに、あらゆる束縛から逃れるのを恐れたので、ああ神よ、わたしはあなたの側に立って戦うのを拒んだのである。
「だから、あなたを瞑想するわたしの思いは、目覚めようと思いながら、眠気に負けて、すぐにまた眠ってしまう人の頑張りのごときものだった。重い眠気が手足におよぶとき、人はしばしばそれを払いのけるのを延ばし、認めはしないものの、眠気を助長する。あなたの愛に身を任せるほうがわたし自身の欲に屈するよりもよいと確かにわかってはいたが、前者の道がわたしを納得させるのに対して、後者のなりゆきはわたしを喜ばせ、とりこにしたのである。わたしには『眠りについている者、起きよ』〔エフェソの信徒への手紙5-14というあなたの呼びかけに応える気はまったくなく、ただ『すぐに、はい、ただいま。ちょっとお待ちください』とものうげに気だるく応じるだけだった。だが『ただいま』は『いまただちに』ではなく、『ちょっと』はどんどん引き延ばされた……あなたがわたしの声をあまりに早く聞きとどめ、消し去られるのを見るよりも、心ゆくまで満たしたいと願っていた欲の病からただちに救われるのをわたしは恐れていたからだ。どのようなことばのムチをもってしても、わたしはわたし自身の魂を責めたてなかった。それなのに、それは言い訳のことばもないのに、尻込みし、拒むのだった……わたしは内心で『さあ、いまそれをやってしまおう』といったのだが、そういったとき、わたしは決意の間際にあった。実行あるのみだったが、実行しなかった。わたしはさらなるもう一つの努力をなして、ほとんど成功しようとしていたが、達成することはできず、死を死ぬことも、生を生きることもためらい、とても慣れ親しんでいた悪が、試しもしなかった、よりよい生活よりも強くわたしを捉えていた」[92]
 [92] 告白Confessions, Book VIII., Chaps. v., vii., xi. 要約。
高尚な願望を抱いていても、殻を噴きとばし、生へと効果的に侵入し、程度の低い性癖を永遠に抑えこむ、まさしくあの最後の激しさ、少しばかりのあの爆発性の激情、(心理学者のスラングを用いるなら)動力発生的な性質を欠くときの分裂した意思を描写するものとして、これ以上に完璧なものはありえません。この高級な興奮性について、後ほどの講義でもっと多く語ることにします。
ノヴァスコシア〔カナダ南東端の州〕の福音伝道者ヘンリー・アリーンHenry Alline(うつ)について、前回の講義で短い説明を読みましたが、彼の自伝のうちに、もうひとつの分裂した意思の好例を見いだすことができます。この哀れな若者の罪は、ご覧になるとおり、最も無害な類いのものですが、それでも真実この上ないものとなる彼の天職を妨げ、そのために彼に多大な苦悶をもたらしました。
「そのころ、わたしはすでに生きかたにおいて非常に道徳的になっていたが、良心の安らぎを見つけだしてはいなかった。その間ずっとわたしのこころについてなにも知ってはいない若い人たちの交わりでわたしは重んじられはじめ、その人たちの尊敬がわたしの魂にとって(わな)になりはじめ、自分が酔っぱらったり、呪ったり、誓ったりしさえしなければ、浮かれたり、世間の歓楽には罪がないだろうと自分におもねってはいたものの、たちまち世俗的な浮かれ騒ぎを好みはじめ、若い人たちの(わたしのいわゆる単純で市民的な)気晴らしは神も認めておられると考えていた。わたしは、一通りの義務を守り、自分がどのような公然たる悪行にも走るのをよしとしなかったので、健康と順境に恵まれていたときには、すこぶる調子がよかったが、落ちこんだり、病気や死、ひどい雷鳴の嵐にびくついたりしたときには、わたしの宗教はものの役にも立たず、なにかが足りないとわかり、あれほど浮かれていたことを悔いたものだが、悩みの種が尽きると、わたしの仲間たちからのそそのかしもあって、またわたしが若い仲間たちを好んでいたこともあって、悪魔とわたし自身の邪まなこころとがとても強力な誘惑をしかけ、わたしはふたたび道を踏み外し、非常に野蛮で粗野になったが、同時にわたしなりに一通りの秘かな祈りと読書を続けていたのである。しかし、神はわたしが自滅するのを望まず、呼びかけをもってわたしを追い、わたしの良心に大きな力をふるったので、わたしは気晴らしで満足することもできず、ときに浮かれ騒ぎのただなかで、わたしが仲間たちに望んでいた状態が失われ、果たされていないといったような感覚を抱き、ことが終わって帰宅すると、このような浮かれ騒ぎにはもう加わらないと約束をどっさりして、何時間も何時間も許しを乞うた。だが、誘惑がまたもやあれば、腰砕けになった。音楽を聴き、ワインを飲んだとたん、わたしのこころは高揚し、ありとあらゆる類いの歓楽や気晴らしに突き進んで、それを腐敗しているとも、あからさまな堕落であるとも思わなかった。だが肉の快楽から戻ると、わたしはいつものように罪を感じ、ときには寝床に入ったあとの何時間か目を閉じることもできず、わたしは地上でこのうえなく不幸な生き物のひとつだった。
「ときにわたしは(もううんざりだとばかり、しばしばバイオリン弾きに演奏をやめてくれといって)仲間たちから離れ、外に出て、まるでわたしの心臓そのものが破れんばかりに叫び、祈りながら歩きまわって、神に、わたしを切り捨てないでください、頑迷なこころのままに打ち捨てないでくださいと哀願した。ああ、なんという不幸な時と夜をわたしはこのように過ごしたことか! ときに浮かれた友人たちに会ったのに、わたしの心が沈みがちであったとき、わたしはできるだけ陽気な顔立ちを装おうと骨折り、彼らがなんの不信感も抱かないようにし、ときには意図的に若い男たちや若い女たちと会話を試み、わたしの魂の苦痛が悟られたり、疑われたりしないように、楽しい歌の音頭を取ったが、実は同時に、わたしは彼らとともにいたり、彼らの楽しみや喜びを同じくしているよりも、追放の身となって荒野にいたかったのだ。わたしが仲間たちに加わっていた何か月ものあいだ、わたしは偽善者としてふるまい、陽気な人柄を装っていたが、同時にできるだけつきあいを避けようと努めていた。ああ、わたしは哀れで不幸な人間だった! なにをやっても、どこへ行っても、わたしは嵐のなかにいたが、それでもその後の何か月間も、わたしは浮かれ騒ぎの主たる考案者、首謀者だった。騒ぎに加わるのは、苦役であり責め苦であったのに。だが、悪魔とわたしの邪まなこころはわたしを奴隷のように引き回し、これをやらなければ、あれをやらなければ、これに耐えなければ、あれに耐えなければ、こっちへ行け、あっちへ行け、信望を大事にしろ、仲間たちの評判を大事にしろといいたてた。そして、その間にもずっと、わたしは自分の義務をできる限り厳格に果たし、わたしの良心を安んじるためにあらゆる手立てを尽くし、わたしの思想さえも監視し、どこへ行っても祈りつづけた。世俗的な仲間たちとつきあってはいても、満足を得ているのではなく、しかるべき理由があって従っているだけだと考えていたので、わたしのおこないには罪があるとは考えていなかった。
「だがそれでも、わたしがなにをやろうが、なにができようが、良心は夜昼となくわめいていた」
聖アウグスティヌスとアリーンご両人は、内心の統合と平安という穏やかな水域に没入しました。次にわたしは、みなさんに統合過程が起動するときのその特質のいくつかについてもっと詳しく考察していただきたいと思います。それは段階的に、あるいは突発的に起こるかもしれません。感情の変容によって、あるいは行為能力の変化によって起こるかもしれません。新しい知的洞察によって起こるかもしれませんし、後ほど、わたしたちが「神秘的」と称しなければならなくなる経験によって起こるかもしれません。どのように起ころうとも、それは特異な類いの救済をもたらします。宗教的な鋳型(いがた)に鋳込まれれば、それほど極端な救済になることは断じてありません。喜び! 喜び! 宗教は、人間がそのような賜物を獲得するための方法のひとつであるにすぎません。しばしばこの賜物は、このうえなく耐えがたい悲惨さをこのうえなく深遠でこのうえなく永続的な喜びに、容易に、永久的に、首尾よく変質させます。
しかし、宗教を見いだすことは、数多くある統合に到達するための方法のひとつであるにすぎません。内心の欠陥を矯正し、内心の不調和を軽減することは、一般的な心理過程であり、いかなる類いの精神的素地においても起こりうるのであり、必ずしも宗教の形態を想定する必要はありません。わたしたちが学ぼうとしている宗教的な型式の新生を判定するにあたり、それが他の種類をも含む部類の一種類であるにすぎないと理解しておくことが大切です。たとえば、新しい誕生が、宗教を離れて不信にいたることかもしれません。道徳的な几帳(きちょうめん)さを離れ、自由と気ままにいたることかもしれません。個人の生活に、愛や野心、貪欲や復讐(ふくしゅう)(しん)、愛国的な献身といった、なんらかの新しい刺激、あるいは激情が突入することによって生じるかもしれません。これらすべての例において、まさしく同じ形の心理的なできごと――嵐と緊張と不調和の時期に続く堅実さと安定と平静――が起こります。これらの非・宗教的な事例においても、新しい人間は、段階的にも、また唐突にも生まれえます。
スターバック氏は、正統性から不信心への移行を適切にも「逆回心」と言い表しましたが、フランスの哲学者ジュフロイThéodore Simon Jouffroy1796-1842)〕は、彼自身の「逆回心」について説得力のある回想録を遺しています。ジュフロイの疑念は永く彼を悩ませていました。だが、彼の不信が固まり、確定したある夜を、彼は最終的な危機のときと特定し、その直接的な結果として、失った幻想を悲しみました。ジュフロイはこう書いています――
「わたし自身の信じられないという思いをわたしから隠していたベールが裂けた一二月のあの夜をわたしは決して忘れないだろう。睡眠時間になっても長いあいだ行ったり来たりするのを慣わしにしていた、あの狭い飾りけのない私室にひびく足音をいまでもわたしは聞いている。雲に半分隠されたあの月が、いまもまた寒々とした窓ガラスを光らせているのを見ている。あの夜の時間が流れ、わたしは時間の経過に気づいていなかった。不安のうちに、わたしはわたしの思いを追い、その思いはわたしの意識の基盤に向かって層から層へと下降してゆき、そのときまでわたしの視界から意識の曲折を隠していた幻想のすべてをひとつひとつ消散させ、一瞬ごとにもっと明瞭に見えるようにしていた。
「難破した船乗りが船の断片にしがみつくように、空しくもわたしはこれら最後の信念にしがみついた。わたしが漂流しようとしていた未知の虚空(こくう)に驚いて、空しくもわたしは信念を、わたしの幼年期、わたしの家族、わたしの国、わたしにとって(いと)おしく神聖なものに振り向けた。わたしの想念の揺るぎない流れは、あまりにも強く――両親、家族、思い出、信念、あらゆるものを流れるままにまかせた。探索はその終わりに近づくにつれてますます執拗(しつよう)になり、ますます容赦ないものになって、その終局にいたるまでとどまることがなかった。そのとき、わたしのこころの深みで真っ直ぐに立っているものはなにも残っていないとわたしは思い知った。
「この瞬間は驚くべきものだった。朝になろうというとき、わたしが疲れきってベッドに身を投げだすと、以前のとても晴れやかな、とても充実していたわたしの生活は火のように消え去り、わたしの前には、もうひとつの生活が、陰気で人気のないまま展開していて、そこでわたしは孤独のまま、わたしをかなたに追放し、わたしが呪いたいとそそのかされた、わたしの破滅的な想念を抱きつつ、孤独のまま生きなければならなかった。この発見につづく日々は、わたしの生涯で最も悲しい時期だった」[93]
[93] Th. Jouffroy: Nouveaux Melanges philosophiques, 2me edition, p. 83. ある時期に記録された別の逆回心の事例を二件付け加えておこう。最初のものはスターバック教授の手稿コレクションから採ったものであり、語り手は女性である。
「わたしの心のずっと奥底で、わたしは『神』について多少なりとも懐疑的であったと信じています。わたしの若年期のあいだずっと懐疑論は底流として育ってはいましたが、それはわたしの宗教的成長における情緒的要素によって制御され、覆い隠されていました。一六歳のとき、わたしは教会員になり、神を愛するかと問われて、世の習いに従い、期待に応え、『はい』と答えました。だがその瞬間、閃光(せんこう)とともにわたしの内部のなにかが『いや、お前は愛していない』と告げました。長いあいだ、わたしは自分の欺瞞(ぎまん)と神を愛さないことの邪悪さに対する恥ずかしさと呵責(かしゃく)とに取りつかれて、それになんらかの恐ろしい方法でわたしを罰する復讐の神が存在するかもしれないという恐怖が混じっていました……一九歳のとき、わたしは扁桃腺炎(へんとうせんえん)にかかりました。全快するまえに、自分の妻を階段の下に蹴り落とし、意識を失うまで蹴りつづけたという人でなしの物語を聞きました。わたしは事態の恐ろしさを鋭く感じました。瞬間的に、この考え、『そのようなことを許す神に用はない』という考えがわたしの心にひらめきました。この経験のあとの何か月間か、神に対する積極的な嫌悪の感情とどこか誇らしげな軽蔑に混じって、わたしの以前の生活に占めていた神に対する冷静な無関心がわたしの心を占めていました。それでも、神は存在するかもしれないと考えていました。もしそうなら、おそらく神はわたしを破滅させるだろうが、わたしはそれに耐えなければならないはずでした。わたしは恐怖をほとんど感じることがなく、神をなだめたいという願いも抱きませんでした。この痛ましい経験のあと、わたしは神とのいかなる個人的関係をも結んだことがありません」
第二の事例は、準備と潜伏の過程がじゅうぶんに進展したとき、小さな刺激を加えるだけで、こころを平静さの新しい状態に投入できることを実証している。(ことわざ)でいうラクダの負う荷に最後の(わら)一本を加えるようなものであり、あるいは過飽和溶液に針で触れるだけで、瞬時に塩が結晶化するのにも似ている。
トルストイはこのように書いている。「率直で知的な男Sが、信じるのをやめたいきさつについて、わたしに次のように語った――
「彼が二一歳のころ、狩猟旅行中のある日、就寝時間になったので、子どものときからの習慣に従い、祈りを捧げる用意をした。
「一緒に狩をしていた彼の兄が干草の上に横たわり、彼を見ていた。Sが祈りを終え、眠ろうとしてひっくり返ると、兄は『まだそんなことやっているのか?』といった。その一言だけだった。だが、その日以来、三〇年以上にもわたって、彼は二度と祈りをしていない。聖餐(せいさん)〔キリストの血と肉としてのぶどう酒とパン〕も拝領しないし、教会にも行かない。それも、あの時、あの場で兄の信念を知り、それを受けいれたからではなかった。魂のうちに新たな決意を固めたからではなく、ただ単に、自重で崩れる寸前の傾いた壁を軽く一押しする指のように、彼の兄が口にしたことばが効いたからである。そのことばは、信仰が宿ると思っていた場所がずっと前から空っぽになっていたことを、彼が聖句をつぶやいたり、祈りのさいに十字を切ったり、頭を下げたりしたのも、内心の意味をもたない所作であったことを示した。ひとたび、そのばかばかしさがわかったからには、もはやそのようなことを続けることはできなかった」 Ma Confession, p. 8.
わたしが入手した記録をもう一つ書き加えておこう。「恋に落ちる」の反対を「恋から抜け落ちる」とするなら、これは、非常にたびたびある類の回心というものを鮮明な形で表している。恋に落ちることも、しばしばこの型、無意識の準備過程が潜在的に進行したあと、突然、取り返しのつかない恋わずらいに陥ったという事実に気づくということに相当する。自由でうちとけた調子が、この物語におのずから語る誠実さを与えている。
「このときの二年間、わたしは非常に不快な経験をしてきたので、ほとんど狂ってしまいそうだった。わたしは少女に激しく恋をし、彼女は若くもあったし、猫みたいな()びるこころの持ち主だった。いま彼女を振り返って、わたしは彼女を憎み、彼女の魅力にあれほど夢中になるまでに成り下がることができたものかと不思議に思っている。それでも、わたしはいつもの熱に浮かされ、他のことはなにも考えられなかった。ひとりのときはいつも彼女の魅力を思い、働いているべきときにも、たいがいの時間、この前の逢瀬(おうせ)を思い、将来の会話を創造してすごした。彼女はとても愛らしく、快活で、このうえなく上機嫌、わたしの賞賛を真剣に喜んでいた。わたしにイエスともノーとも決定的な答を与えてくれなかったし、奇妙なことに、彼女の手を求めて追っているのに、その間ずっと、彼女はわたしの妻にふさわしくないこと、彼女が決してイエスと言わないことを心ひそかに知っていた。一年の間、同じ下宿で食事をして、ひんぱんに親しく会っていたのに、もっと親しい関係はおおむね人目を避けるものであり、わたしが彼女を賞賛していた別の男を嫉妬したり、わたしは度し難い弱虫だと自己卑下したりしていたこともあいまって、この事実がわたしを不安にさせ、不眠にしたので、わたしは狂ってしまうのだと本気で考えた。わたしは、新聞でとてもしばしば見かける、あの恋人殺しの若い男たちをよく理解できる。それでも、わたしは彼女を熱烈に愛していたのであり、ある意味で、彼女はその愛に値していた。
「奇妙なのは、突然、思いがけない形ですべてが終わったことだ。ある朝、食事を終えて、いつものように彼女を思い、わたしの惨めさを考えながら、仕事に出かけようとしていたとき、気づいてみると、まるでなんらかの外部の力がわたしを(とら)えたかのように、わたしは取って返して、わたしの部屋に駆け込むようにして、何本かの彼女の髪の毛、彼女のメモや手紙すべて、彼女のアンブロタイプ〔ガラス版ネガ写真〕などなど、わが物にしていた彼女の形見の品すべてをただちに取り出していた。復讐や処罰といった、ある種の猛々しい喜びを感じながら、毛髪や手紙は焼き払い、ガラス版は足で踏み砕いてしまった。そのとき、わたしは彼女を毛嫌いし、すっかり軽蔑して、わたし自身としては病気の重荷が突然にわたしから取り除かれたと感じた。これで終わった。その後の歳月ずっと、わたしは二度と彼女に話しかけたり、手紙を書いたりしていないし、あれほど多くの月日、わたしの心をすっかり占めていた人に愛の思いを向けたことは一瞬としてない。じっさい、わたしは彼女の思い出をいつも憎んでいるが、いまでは憎しみの方向に不必要なまでに遠く進みすぎたとわかってはいる。いずれにしても、あのめでたい朝からずっと、わたしはまさしくわたし自身の魂をわがものに取り戻し、似たような(わな)には二度とはまっていない」
わたしが思うに、これは、人格の二つの異なったレベルが、それぞれの要求が矛盾しあいながら、それでも長い間にわたってたがいに釣り合いがうまく取れ、そのために生活が不調和と不満で満たされてしまったことを示す非常に明確な実例である。ついには、徐々にではなく、思いがけない危機にあって、不安定な平衡(へいこう)状態が破れてしまい、これがとても不意に起こったので、書き手のことばでいえば、まるで「外部の力が捉えた」かのようだったのだ。
スターバック教授は、彼の著『宗教心理学』Psychology of Religionの一四一頁に、同類の事例と、それに憎悪が突然に愛に変わってしまう逆の事例とを紹介している。彼が同書の一三七頁から一四四頁にわたって示している、習癖や性格の突然の非宗教的な変化のきわめて不思議な事例をも比較参照のこと。このような突然の変化は、無意識的に発達し、意識生活に突入したときに支配的な役割を果たすようになる準備を整えた、特別な脳の機能の結果であるとする、彼の考えは正しいようだ。わたしたちが突然の「回心」を扱うときに、この無意識下の潜伏という仮説をできるだけ活用することにする。
ジョン・フォスター〔John Foster 1770-1843)英国の随筆家〕の『性格の決定に関する論考』Essay on Decision of Characterに、強欲への突然な回心の事例が記されており、よい実例なので、これを引用しておきましょう――
それによれば、ある若い男が「友人を自称する卑劣な仲間たちと放蕩(ほうとう)三昧(ざんまい)の限りを尽くし、二年か三年のあいだに世襲財産を使いきってしまったが、その連中は、金の切れ目が縁の切れ目で、もちろんのこと彼を無視し、あるいは馬鹿にするようになった。後がない貧乏に(きゅう)した彼は、ある日、人生に終止符を打つつもりで家を出たが、しばらく、ほとんど無意識のうちにさまよい、先日まで彼の地所だった不動産を見渡せる高台の頂上にやってきた。そこに座りこんで、何時間かもの思いにふけっていたが、ついに腹の底からの勝ち誇った気分のうちに地面から(おど)り上がった。彼は決意を固めたのだが、それはすなわち、これらの地所はふたたびわがものになるべきだというものだった。また彼は計画を立てたが、ただちにそれを実行しはじめた。どれほどけちな小銭であっても、いくばくかの金を稼ぐために、どれほどつまらない類のものであっても、最初の好機をものにしようと、彼は急ぎ足で歩いたし、できることなら、手に入る金は一銭たりとも決して使うまいと決意していた。最初に彼の目に付いたものは、ある家の前の舗装のうえに荷馬車から転げ落ちた石炭の山だった。彼はスコップを使うなり手押し車を使うなりして、あるべき場所に石炭を運ぶと申し出て、雇われた。その労賃として、彼は数ペンスの金を得た。すると彼は、自分の計画の倹約部門を実施するために、お気持ちだけでいいから、肉と飲み物をいただけないかと要求し、与えられた。そこで彼は、次の(もう)けになりそうなチャンスを探した。そして、不屈の熱心さを発揮して、いろいろな場所で、長期や短期の屈従的な仕事を次々とこなし、相変わらず、できるだけ金を使わずにすむように細心の注意を払った。自分の計画を進めるためには、仕事や体裁が卑しくてもお構いなく、あらゆる機会を即座に捉えた。かなりの期間、このような手段を続けた結果、再販売するための牛を何頭か仕入れるのに足りる金が得られたのだが、その相場を知るのには苦労させられた。彼は、速やかに、だが用心深く、最初の儲けを次の儲けのために投資した。一度も外れることなく、極端な倹約を続けた。このようにして、しだいに大きな取引を手掛けるようになり、初期資産を蓄えた。その後の彼の人生がどうなったか、わたしは聞いていないし、あるいは聞いたとしても忘れてしまったが、最終的な結果として、失った所有地を回復しただけではなく、六万ポンドを遺し、頑固な守銭奴として死んだ」[94]
[94] 前掲書、第三書簡、要約。
ここで、宗教の事例、つまり、わたしたちに直接関心がある類いの例に移ることにしましょう。ここに、考えうる最も単純な形、生まれつき健全な精神のタイプであるに違いない人が組織的な宗教に回心する場合の説明があります。果実が熟すれば、一触れするだけで落ちるものですが、これがそのことを明示しています。
ホラス・フレッチャー氏Horace Fletcher 1849–1919)米国の食養信奉者〕は、小冊子 Menticultureにおいて、日本人が仏教修行の実践で体得する自制について彼と話し合っていた友人が次のようにいったと述べています――
「『君はまず怒りと恐れを手放さなければなりません』『でも、そんなことが可能なのですか?』とわたしはいった。『そうです、日本人には可能なのであり、われわれにも可能であるはずです』と彼は応じた。
「帰り道、わたしは、『手放す、手放す』ということばのほか、なにも考えられなかった。その想念は睡眠時間中にもわたしに取りついていたに違いない。というのも、朝の最初の意識が同じ考えを呼び戻したからであり、それには発見の啓示が伴っていて、『怒りと恐れを手放すことが可能ならば、いったいなぜ怒りと恐れを持っている必要があるのか?』という論理に仕上がった。わたしはこの推論の強さを感じ、直ちにこの論理を受け容れた。赤ん坊は自分が歩けるとわかったのだ。赤ん坊は、いつまでハイハイしていることを軽蔑することだろう。
「怒りと恐れという癌の患部は除去可能であるとわかった瞬間から、わたしから怒りと恐れは去った。それらがもつ弱みを発見することによって、それらは追い払われたのである。その時から、生きることはまったく別の様相になった。
「重苦しい情念から解放されるのは可能であり、望ましいということは、その瞬間からわたしにとって現実味を帯びることになったけれども、わたしの新しい態度が完全に安定していると思えるようになるまで数か月かかった。だが、恐れと怒りを感じても当然であるできごとが何度も何度も出現したが、恐れや怒りをいささかも感じることがなく、もはや恐れや怒りにおびえたり、身構えたりすることもなく、ありとあらゆる状況に対処する強さが備わり、すべてを愛し、理解する構えができて、わたしの心のエネルギーと活力が増したことに驚いている。
「あの朝から今までに、わたしには一〇万マイルを超える鉄道旅行をする機会があった。以前にはわずらわしさとイライラの種であったプルマンのポーター〔鉄道会社プルマンの赤帽〕や車掌、ホテルのボーイ、行商人、旅行業者、辻馬車の馭者(ぎょしゃ)、その他の人たちにあったが、その同じ彼らに無作法な言動をひとつも感じなかった。突如として世界全体がわたしにとってよいものに改まったのである。言ってみれば、わたしは善の光線だけを感じるようになったのだ。
「心の真新しい状態を証する体験を数多く語ることもできるが、ひとつでじゅうぶんだろう。おもしろくて楽しいだろうと大いに期待して乗るつもりだった列車が、わたしの荷物が届かなかったので、わたしを駅に置き去りにして、発車してしまったが、わたしはいささかもイライラやじれったさを感じなかった。列車が視界から消えようとしている丁度そのとき、ホテルから赤帽が走ってきて、息を切らしながら駅に跳びこんだ。赤帽がわたしに気づくと、叱責されると恐れているようであり、通りの混雑にさえぎられて、抜け出ることができなかったと言いだした。わたしは赤帽に『まったく構わないよ。君にはどうしようもなかった。明日、もう一度、来てみよう。さあ、料金だ。これだけ稼ぐのに、厄介をかけてすまなかった』といった。赤帽の顔に現れた驚きの表情は喜びに満ちていたので、わたしの出立の遅れはその場で報われた。翌日、赤帽は仕事の報酬を一セントも受け取らず、彼とわたしとは生涯の友になった。
「わたしの体験の最初の何週間か、わたしは恐れと怒りだけを警戒していた。だが、その間に、他の重苦しく、いじけた感情も失せてしまったと気づき、関連を調べはじめたところ、こうした感情のすべてが、わたしの特定した二つの根っこから育っていると確信するようになった。とても長いあいだ、わたしは自由を感じているので、自由とのつながりに自信がある。伊達(だて)男が自分から堕落の貧民屈であがこうと思わないように、わたしは人類の定めとして(はぐく)んでいた、こそこそした重苦しい感化力のどれも心に宿らせはしない。
「純粋なキリスト教や純粋な仏教が、あるいはメンタル・サイエンスやあらゆる宗教がわたしには発見であったものを教えていることには、わたしの心中にいささかの疑いもない。だが、それを単純で簡単な消去法の観点から説いているものは皆無である。消去法が無関心や怠惰に負けるようなことはないだろうかと一時は迷ったこともあった。だが、わたしの経験では、結果はその反対だった。なにか有益なことをしたいという願望がとても増進したと感じるので、まるでわたしが少年に戻り、遊びのエネルギーが再来したかのようである。いざとなれば、これまでと同じくすぐにでも(またより上手に)戦えるだろう。臆病者にはしないのだ。恐れは消去されたものに数えられるので、そうしようもない。どのような聴衆を前にしても、わたしは臆病などいささかも感じていないとわかる。少年のころ、木の下に立っていると、その木に雷が落ち、そのためにショックを受けたので、わたしが恐れと縁を切るまで、その恐怖から免れることはなかった。その後、以前ならばわたしの意気を大いに(くじ)き、不安にさせた状況で稲光や雷鳴に出会っても、まったくそのようなことは感じなくなった。驚きもまた大きく変わった。思いがけない光景や音に出くわしても、びっくりすることは少なくなった。
「わたし個人としては、現在のところ、この解放された状態の結果がどうなるのか、気にしない。クリスチャン・サイエンスの目指す完全な健康が可能性の一つであることには、まったく疑いをもっていない。食べ物の処理をまかせた胃袋の消化の働きが著しく改善していることに気づいているからである。青筋たてて争うときよりも、歌声を聴いているときのほうが、胃袋の調子がよいとも信じている。未来の命や未来の天国といった観念を練るようなことをして、この貴重な時間を浪費するようなこともしない。わたしが自分自身のうちに保持する天国は、約束されているものやわたしに空想できるもののどれにも劣らずに魅力的である。成長が導くところがどこであっても、怒りやその同類が成長の道を誤らせないかぎり、わたしはそれに従うつもりである」[95]
[95] H. Fletcher: Menticulture, or the A-B-C of True Living, New York and Chicago, 1899, pp. 26, 36. 要約。
古い医術では、身体の病気からの回復解熱(げねつ)について、散渙(さんかん)lysis­(ぶん)()crisisという二つの道筋、一方は段階的なもの、他方は突発的なものを説いていました。精神界の領域における内的な統合についても、一方は段階的なもの、他方は突発的なものがあります。もとより人様のこころの紆余曲折(うよきょくせつ)をたどることは難しいといわねばならないでしょうし、他人のことばが本人の秘密の全体を明かしているのではないと思えるのですが、ここでもトルストイとバニヤンとは好例、つまりこの場合は段階的な道筋の好例になるようです。
それはさておき、トルストイは果てしない疑問を追及するうちに、次から次へと洞察に到達したようです。まず彼は、命は無意味であるとする彼の確信が、この有限の命のみを考慮するものであることに気づきました。彼は一つの有限項の価値をもう一つの有限項のなかに求めていたのであり、その結果は無限に広がる数学の不定方程式の一つにすぎませんでした。しかも、非理知的な感情が、または信仰が無限を持ち込まないかぎり、これが推論的な知性がそれ自体で到達できる限界なのです。世人に習って無限を信じることです。そうすれば、命はふたたび可能性の限界を拡げることでしょう。
「人類が存在してきたからには、生のあるところどこでも、生きることを可能にする信仰もやはりあった。信仰とは、生きてあるという自覚、そのおかげで人間が自己を破壊せず、生を続ける、あの認識なのだ。それは、われわれが生きるための力なのだ。なにかのために生きなければならないと信じていなければ、人はまったく生きようとしないだろう。無限の神という、魂の神性という、人の行いが神と調和しているという観念――これらは、人間の思いの秘められた無限の深みで練られた認識なのだ。これらは、それなしには生もなく、それなしにはわたし自身も存在しない、そういった認識である。
「わたしには、わたし個人の理由づけに頼って、信仰が与えるこれらの答えを無視する権利はないとわたしは悟りはじめた。これらのみが、疑問に対する答えなのだから」
だが、どのようにすれば、粗雑きわまる迷信に染まった世人が信じるように信じられるのか? 不可能です――それでも、世人の生活は! 彼らの生活は! まっとうです。幸せです! これは、疑問に対する答えなのだ!
少しずつ少しずつ――ご本人は、二年かかったといっていますが――トルストイは、自分の悩みが、人生一般、普通の人びとの普通の暮らしに伴うものではなく、上流の知的で風雅な階級の生活、自分自身がいつもすごしてきた生活、頭脳主体の生活、慣例や人為や個人的野心に彩られた生活に伴うものであったという、ゆるぎない確信にいたりました。彼は間違った生きかたをしてきたのであり、変わらなければなりませんでした。身体的要求のために働くこと、虚偽と虚栄を手放すこと、社会の貧困を救済すること、質素であること、神を信じること、ここにふたたび喜びが見いだされるでしょう。トルストイはこういいます――
「初春のある日、わたしが森にひとりでいて、森の神秘的な物音に耳を傾けていたのを思い出す。聴いていると、わたしの思いは、この三年間、思想が忙しく求めていたもの――神の探求――に立ち返った。だが、神の概念とは、とわたしは言った。どうして概念で到達できるのか?
「すると、この考えとともに、生への喜ばしい熱意がわたしのうちにふたたび湧きあがった。わたしのうちのすべてが目覚め、意味を受けとった……どうしてわたしは遠くを見つめるのか、とわたしの内なる声が問いただした。主はそこにいなさる。主、その主なしには生きていけない。神を認めることと生きることとはひとつであり、同じことなのだ。神は命そのものだ。さて、では! 生きるのだ。神を求めるのだ。神なしには、生はないだろう……
「この後、わたしの内部でも周辺でも、これまでになくものごとがすっきりし、光がすっかり消えてしまうこともなかった。わたしは自殺から救われたのだ。どのように、またいつ変化が起こったのか、わたしには言えない。気づかないうちにじわじわとわたしの生命力がわたしの内部で衰え、わたしが精神的な死の床にいたったのと同じように、わたしの生命エネルギーはじわじわと感知しがたいうちに回復したのである。奇妙なことに、この戻ってきたエネルギーはなんら新しいものではなかった。それは、昔、わたしの幼いころの確信の力、わたしの人生の唯一の目的はよりよくなることであるという信念だった。わたしは、因習的な世界の生活は、生活ではなく、生活のパロディであり、それが過剰であると、理解が妨げられるだけであると認識して、それを捨て去った」 [96]
 [96] わたしの訳文では、トルストイのことばがかなり要約されている。
その結果、トルストイは百姓の生活に甘んじ、それ以来、自分が正しく幸せであると、あるいは少なくともかなり正しく幸せであると感じていました。
さて、トルストイの(うつ)を解釈してみますと、それは単なる偶発的な気質の劣化ではありませんでした。もっとも、それも疑いなくあったのでしょうが。彼の欝は、内的な性格と外的な行動や意図との衝突の結果、必然的にもたらされたものでした。トルストイは、文芸家ではありましたが、例の質実(しつじつ)剛健(ごうけん)人種のひとりであって、わが上品な文明の贅沢(ぜいたく)や不誠実、貪欲(どんよく)紛糾(ふんきゅう)や無慈悲にとてつもなく不満であり、そういう人にとっては、永遠の真実は、もっと自然で身体的なものごととともにあったのです。彼の転機とは、魂を健康な状態に戻し、魂の真正な()りどころや使命を発見し、欺瞞(ぎまん)から脱出して、彼にとっての真理の道へと向かうことでした。それは、性格混交型の人格が調和と釣りあいをのろのろゆっくりと見つけていくといった事例でした。わたしたちの多くは、たぶん骨のなかに原人の骨髄をじゅうぶん持ち合わせていないために、トルストイを真似ることができないでしょうが、わたしたちのたいがいは、少なくともできるならそうしたほうがよいと感じていることでしょう。
バニヤンの回復は、さらに遅々としていたようです。何年も連続して、彼は次から次へと聖句に取りつかれ、浮き沈みを繰り返していましたが、ついには、しだいに募ってゆく慰めをキリストの血による救済に得るようになりました。
「わたしの平安は日に二〇回も訪れては去った。いまホッとすれば、たちまち苦しんだ。いま平安が宿れば、ファーロング〔距離の単位:約二〇〇メートル〕も行かないうちに、心に抱えきれないほどの罪悪感と恐怖でいっぱいになった」 
バニヤンが望ましい聖句に得心でもすれば、彼は「これが二、三時間分の申し分ない励みになった」とか、「今日はわが吉日である。それを忘れたくないものだ」とか、「これらのことばの輝きは非常に荘重なものであり、私は座りこむなり卒倒せんばかりだった。だが、悲嘆や苦しみではなく、確かな喜びと平安を伴っていた」とか、「これがわたしの精神を奇妙な具合にとらえた。光をもたらし、以前にはまるで野に放たれた地獄の番犬のように吼えたけって、わたしのなかにぞっとする騒音を立てていた、心のなかの例の騒がしい思いのすべてに沈黙を命じた。それは、イエス・キリストがわたしの魂を見放したり見捨てたりしたのではまったくないことを明かしてくれた」とかなどと書いています。
そういった時期が重なるうちに、彼は次のように書けるようになりました――
「そしていま、雷はわたしから過ぎ去り、大嵐のなごりが消え去っていないだけであり、いくつかの雨粒がぱらつき。時おりわたしに降りかかるだけだった」
そして、ついには――
「いまや、鎖がわたしの足から外れ落ちた。わたしは苦悩と足枷(あしかせ)から解き放たれた。誘惑もまた消えうせた。だから、そのときから例のおそれ多い神の聖典がわたしを悩ませることはなくなった。また、神の恵みと愛のおかげで、わたしは歓喜しながら帰宅するようになった……いまや、わたしは自分が同時に天国と地上にいると見ることができる。わたしの身体あるいは個別性によって地上にいながら、わたしのキリストによって、わたしの主によって、わたしの義と命によって、わたしは天国にいるのである……あの夜、キリストはわたしの魂にとって尊いキリストだった。キリストによる喜びと平安と勝利のおかげで、おちおちベッドに横たわっていることもできなかった」
バニヤンは福音の宣教者になり、神経症的な気質であったにもかかわらず、また国教を拒絶したかどで一二年間も獄中で過ごしたにもかかわらず、彼の人生は活発な行動に捧げられました。彼は、平和を実現する人、善をおこなう者となり、彼の著した不滅の寓話(ぐうわ)はイギリス人の心に宗教的な忍耐の精神そのものを納得させました。
ですが、バニヤンにしても、またトルストイにしても、わたしたちのいわゆる健全な精神になることはできませんでした。彼らは苦杯をたっぷりと飲んで、その味を忘れることがなく、彼らの救いは二層構造の宇宙に深く組みこまれているのです。彼らは、それぞれ悲しみの(やいば)を砕く善を実現しました。それでも悲しみは、悲しみを克服した信仰の核心のうちに副次的成分として保存されていました。わたしたちにとって重要なのは、実際問題として彼らの意識の内面的な到達範囲内に湧きあがっているなにものかを見つけることができたし、見つけたという事実であり、それによってあのように極端な悲しみを克服できたのです。あっぱれにも、トルストイは、それを人が生きるゆえんであるそのものであると語っています。それこそがまさしくそのもの、刺激、興奮、信仰であり、ちょっと前には生きることを耐えがたいものに見せていた邪悪な知覚がたっぷりと感じられていても、積極的な生きる意志をふたたび吹きこむ力なのです。というのも、邪悪がその領域内に相変わらず残っているようにトルストイは感じたからです。その後の彼の作品は、彼が上流生活の卑しさ、帝国の汚名、教会の欺瞞(ぎまん)、専門職の空っぽな慢心(まんしん)、大成功に付いてまわる卑劣さと無慈悲、そしてすべての尊大な犯罪とこの世界に巣食う偽りの慣習、公認価値の全体系に対して容赦なかったことを示しています。このようなものごとを容認してしまうことは、彼にとって永遠の死の支配を受け容れることであると体験が示していました。
バニヤンもまた、この世界を敵の手に残しています。彼はこういいます――
「まずわたしは、今生(こんじょう)のものといって相応(ふさわ)しい万物(ばんぶつ)頭上(ずじょう)に死を宣告しなければならず、われ自身、わが妻、わが子たち、わが健康、わが楽しみ、そしてありとあらゆるものは、わたしにとって死んだもの、われ自身は、それらにとって死んだものとさえ思わなければならない。来世に触れるにあたっては、キリストによって神を信頼し、この世に触れるにあたっては、墓をわが家とし、暗闇にわが寝床をしつらえ、腐敗に向かって『あなたはわたしの父』といい、蛆虫(うじむし)に向かって『わたしの母、姉妹』といわなければならない〔ヨブ記17-14……妻やかわいそうな子どもたちと別れるのは、わたしの骨から肉をはがすようであり、わたしの(かたわ)らにいる誰よりも気がかりである、かわいそうな盲目の子はなおさらだった。かわいそうな子、この世の運命としてお前はなんという悲しみを背負うことになるのだろう!とわたしは考えた。いま、風がお前に吹きつけるのがわたしには耐えられないが、お前は(なぐ)られ、物乞いし、空腹、寒さ、寄る辺なさ、そしてありとあらゆる災難に見舞われるはずだ。お前たちと別れるのは身を切られる思いだが、お前たちみなを神に委ねなければならない」[97]
[97] 引用にあたって、本文中の不要な部分をいくつか削除した。
「決意の絶叫」は聞こえますが、あふれんばかりの忘我の解放は気の毒なバニヤンの魂に訪れたことはないようです。
専門用語で「回心」と呼ばれる現象の概略を知るためには、これらの例で事足りるでしょう。次回の講義では、その特質と付随事項に関するいくらか詳しい研究にみなさんを(いざな)うことにします。
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© 2012, Toshio Inoue

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