2011年10月19日水曜日

和田不及アート展 2011・10・19

不及 aka 和田至紘 会津坂下町・光照寺















東本願寺真宗会館 広報誌『サンガ』2000年9月号
[三分間法話] 神国「日の丸」から、仏国「悲の丸」へ

日月を 越えて
はたらく 仏(ほとけ)かな

今や、「日の丸」と言えば国旗。国歌と言えば「君が代」。昨年の小渕内閣において、ほとんど論議されぬまま、あたふたと法制化されてしまったのであります。国は、無自覚、無反省のままに…。そして、ちょっぴり批判したつもりでさしたる抵抗もなく受け入れてしまった私どもの不甲斐なさも露呈されてしまいました。そして時は刻々と21世紀へと針を突き進みつづけております。

私は子供の頃から、日出づる国の象徴ともされ、自賛してきた美しい旗、日の丸に酔いしれてきた一人です。事あるごとに日の丸を高々と掲げ、そのはためきに感動してまいりました。ところが、十五年戦争と言われる全世界を巻きこんだ大戦によって誇るべき日の丸は筆舌につくしがたい、尊い「いのち」の痛ましい鮮血をもって染められてしまったのでした。

私の好きだった美しい日の丸をひきずりおろしてくれたきっかけとなったのは、1985年(昭和60年)中曽根首相(当時)の靖国神社公式参拝宣言からでした。彼は、「公式参拝せずして、誰が御国のために命を捧げましょうか」と、そして更に「わが国家・国民は過去の汚濁を捨て、常に栄光に向かって進むべきである」と演説したのです。一方、その同じ年、西ドイツの大統領ワイツゼッカー氏のドイツ国会での演説は「過去に眼を閉ざすものは、現在をも見失ってしまうだろう」と。更に「わがドイツ国民はヨーロッパの国々、とりわけポーランドをはじめとする近隣諸国に対しては加害者であることを決して忘れず、永遠に心に刻みつづけなければならない」と。ナチス民族主義政権下で、犠牲となった当のドイツ国民の言い知れぬ悲しみと痛みを共にしながらもドイツ国民の義務として決然と訴えたのです。万場、嵐のごとき拍手をもって感動の波が起こり、その波はうねりとなって、もれることなくわが日本にも押し寄せたのでした。当時、この演説を受けて土井たか子社会党党首(当時)が国会でわが国の今後の進むべき方向を糾(ただ)したのでした。聞き方にまわった自民党の竹下幹事長(当時)もまた心を揺さぶられ感動の拍手を送ったことは記憶に新しいことです。

さて、かくして「日の丸」は神の国の旗印として認識されつつも、同時に日本の内外より新たなる「人民の、人民による、人民の歌・旗を!」の声が湧きおこってきたのは必然でありました。

時は、瞬(またた)く間に20世紀末に近づいた昨1999年8月末のこと。何気なしに見ていたテレビ画面に突然釘づけにされたのです。それは中近東だけに観測されたという「皆既日食」の映像でした。真っ黒にぬりつぶされたかに見え、更にその影からは喘(あえ)いでいるかのごとき「コロナ」のゆらめきが強烈なインパクトをもって脳裡(のうり)に焼きつけられたのです。そして同時にそこから「日本の皆さん、ほんの瞬時だけでいいのです。静かに眼(め)を閉じて、心の眼(まなこ)を開けてごらんなさい。きっと、あなたたちにも、消し忘れ去ることのできない、悲しい過去の足跡が見えてくるでしょう。さ、勇気をもって、そしてこの現象(すがた)をあなたたちの象徴幟(しるしばた)になさい」そんな声が聞こえたのです。その瞬間私の中に仏国旗「悲の丸」が誕生したのでした。

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