2014年1月31日金曜日

【追悼】ピート・シーガー「ぼくの河は汚れちまっている」~スループ帆船クリアウォーター

grist: A BEACON IN THE SMOGGrist – A Beacon In The Smog
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「ぼくの河は汚れちまっている」
汚染に対処したピート・シーガーの遺産

“My Dirty Stream”: Pete Seeger’s anti-pollution legacy
――ミシェル・ニジュイス Michelle Nijhuis
Cross-posted from Last Word on Nothing
ここ何日間か、みなさんはピート・シーガーの歌をたっぷりお聞きになったのではないでしょうか。無理もないことです。シーガーは月曜日に亡くなりましたが、とても長く歌い継がれるに値する、美しくも図太い、忘れがたい歌を遺したのですから。でも、わたしにとって――そして、シーガーがハドソン川沿いに土地を所有していたあいだ、そこで育った何百万もの子どもたちにとっても――遺されたものは、歌でなく、物語でした。
そのお話を語ってみましょう。
ピートと彼の妻トシがニューヨーク州ビーコンの土地を購入した当時、遠隔の町、ビーコンに移り住むのは、かっこいいことではありませんでした。ハドソン川沿いの町々は数十年も前から衰退しており、暮らしにくい、ちっぽけな在所でした――そしていまだに、多くの意味で同様です。多くの死亡記事が、シーガー家が移り住んだとき、ハドソン川は汚れていたと伝えています。とにかく不潔でした。およそだれでも、下水、ゴミ、ありとあらゆる不愉快な産業廃棄物など、およそなんでも川に捨てており、許可も要りませんでした。バクテリアが大量の酸素を消費しましたので、時どき、魚が水中で窒息しました。マンハッタンから25マイルほど北のタリータウンの近辺では、川の水が地元のゼネラル・モーターズが採用する塗料の色に合わせて変色していました。自分の健康が大事なら、魚を釣らず、自分の命が大事なら泳がないというありさまでした。
そこで、ピートは大きな木造船を発注しました。最初、およそ誰にも合点のいかないことでした。だが、ピートは、優美で古風な船――1819世紀に川を帆走していたスループ型帆船のレプリカ――が、人びとを忘れられていた川岸に引き寄せ、人びとが川岸でハドソン川の別な未来に思いを馳せることができるだろうと考えていました。
106フィート長のハドソン川スループ、クリアウォーター(Clearwater)は、1969年の春、メイン州の造船所を出帆し、南のニューヨーク市に回航され、次いで――バクテリア濃度が安全レベルの170倍に達する河川域――ハドソン川の活動域へと北上しました。
背高マストのスループは無視しがたく、しかもピートがバンジョーを持って乗り組んでいました。じっさいに人びとは衰退した川岸にやって来て、声を上げはじめ、ピートとその仲間たちがハドソン川の嘆かわしい状態に引きつけた注目が一助となって、ついには1972年連邦水質汚染防止法の成立につながりました(議会が同法案を議論していたとき――役だったかどうかはともかく――ピートはスループ帆船クリアウォーターをワシントンDCに回航し、議会のホールで即席のコンサートを開いて、彼の主張を訴えました)。水質汚染防止法が投棄を規制し、下水処理に投資し、ハドソン川は少しずつきれいになりました。バクテリアと汚染物質のレベルは下がりました。魚類が戻り、ゆっくりと健康になっていきました。
スループ帆船は航行しつづけ、ピートは演奏しつづけ、1970年代と80年代、わたしがハドソン渓谷で子どもだったころ、スループ帆船クリアウォーターとその主を避けることはおよそ不可能になっていました。ピートはたいがいのセレブのようには引きこもらず、教室やお祭りで、あるいはその合間にどこでも演奏していました。わたしと同世代のハドソン渓谷の子どもたちはたいがい、階級や人種を問わず、また親たちの政治党派を問わず、いつかどこかでピートのバンジョーの音を聞き、そのほとんどがスループ帆船クリアウォーターの甲板上を歩きまわりました。船は定期的に川を上り下り帆走していましたが、圧巻は10月の航行であり、そのとき、カボチャをどっさり積み上げ、川岸で販売していました。わたしら子どもたちが音楽を聞いたり船を見かけたりすると決まって、その物語を聞いたものです。
汚れきった川でしたが、いまはずっときれいになっています。間違いが正されています。不可能が、可能になっています。
1980年代末、わたしが高校乗り組みチームの操舵手を務めたころ、川は実習後に泳げるほどにきれいになっていました。わたしが育った土地に近接した川岸地区、ポキプシーは人も多くなく、魅力もありませんでしたが、もはや避けるべき土地ではなくなっていました。
それでも、ピートは活動をつづけました。1990年代と2000年代、彼の声がしわがれ、弱々しくなると、周りに学童たちを集めて歌わせ、演奏をつづけました。彼は、ハドソン川のPCB類、その他の残存汚染物質を浄化するために戦いました。彼は、享年94歳で亡くなったとき、1900年代にマンハッタンの沖合に浮かんでいた水泳用木造プラットフォームを想起させるビーコン川岸の河川プールを建造する提案を先導していました。2004年、彼はハドソン川について「わたしは、きれいになっても、まだ道半ばですといつも人にいっています」と語りました。
不可能だったことが、可能になりました。そして、この仕事に終わりはありません。
【筆者】
ミシェル・ニジュイスは受賞歴のあるジャーナリストで母親、コロラド州西部で科学と環境について執筆。Follow her on Twitter.
【ウィキペディア参照記事】
ピート・シーガー(英語: Pete Seeger191953 - 2014127日)はアメリカ合衆国のフォーク歌手である。20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。
環境問題
シーガーは、1966年に環境保護団体“Hudson River Sloop Clearwater”の創設に参加して以来、この組織に長く関わっている。この組織は当時からハドソン川の水質汚染を取り上げて、その改善に取り組んできた。その取り組みの一環として、帆船(スループ)「クリアウォーター(Clearwater)」が1969年に建造され、処女航海ではメイン州からニューヨーク市のサイス・ストリート・シーポート博物館 (South Street Seaport Museum) へと回航し、そこからハドソン川を遡上した。この処女航海の乗組員の一人だったドン・マクリーンは、トマス・B・アレン (Thomas B. Allen) のスケッチを収録した「Songs and Sketches of the First Clearwater Crew」という本を仲間と編集したが、シーガーはこの本に序文を寄せている。シーガーとマクリーンは、1974年のアルバム『Clearwater』の「Shenandoah」で共演している。帆船「クリアウォーター」は、ボランティアやプロフェッショナルな船員が乗り込んで、ハドソン川を定期的に航行し、主に学校を対象とした環境教育プログラムを実施している。
「グレート・ハドソン・リバー・リバイバル (Great Hudson River Revival)」、通称「クリアウォーター」は、ハドソン川に面したクロトン・ポイント公園で毎年開催される2日間の音楽祭である。これはもともと、シーガーと仲間たちが「クリアウォーター」を建造するための資金を集めるために行ったコンサートがきっかけで始まったものである。
1969年にシーガーは、当時汚染されていたハドソン川のことを歌った「That Lonesome Valley」を作って演奏したが、彼のバンドのメンバーたちも「クリアウォーター」を記念する曲をいろいろ作り、演奏した。
【YouTube 参照映像】